第2章「一億円農家」の経歴と素顔
文・1番化戦略ライティング 吉田順一
北海道空知郡富良野。TVドラマ「北の国から」の舞台として全国的に知られるようになったこの地域は、広大な北海道のほぼ中央に位置し、上富良野町、中富良野町、南富良町、富良野市の4つの市町村で構成されている。東方に十勝岳連峰や大雪山、西方に芦別岳を望み、空知川、富良野川といった一級河川に形成された富良野盆地には、明治29年以降、旭川市を起点とした鉄道の開通・延線と共に多くの開拓農民が移り住み、豪雪や厳冬と向き合いながら、豊かな一大穀倉地帯への道を切り開いた。
寺坂さんもまた、そんな開拓農民の子孫の一人だ。寺坂農園は夏には美しい紫のラベンダーが咲き誇り「なかふらのラベンダーまつり」で知られる中富良野町にある。農園の耕地面積は約35,000平方メートル。広大な大地を大型トラックで開墾する北海道のイメージとは異なり、農園の土地の面積は北海道ではむしろ小さい。富良野盆地のちょうど中央に位置し、寒暖の差が激しい盆地特有の気候の中でのメロン栽培を行なうため、農園内には長さ100m以上もあるビニールハウスが33棟も立ち並んでいる。
大正より続く農家の5代目として、寺坂さんが家業を引き継いだのは18才の時。
まず直面したのは、その家業の経営難だった。年間の売上約600万円に対し、これまで積み重なった借金がおよそ1,400万円。そのほとんどが、農業を続けるために農協からローンとして借りた借入金だった。当時、祖父、母親、自分の3人で続ける農業では大幅な生産増加も見込めず、寺坂家は会社勤めをする父親の収入でなんとか生活を支えていた。
寺坂さんも米作をはじめ、人参、アスパラガス、豆類と睡眠時間を削りながら生産に励んだが、なかなか状況は好転しなかった。
経営難の主な要因は、家業を取り巻く経営環境だった。当時の寺坂農園の収入源は全て農協へ出荷される委託販売だった。品質のチェックはあるものの、買取先としては常時安定してはいる。しかし、多数の生産物が集約される市場でもあるがゆえに、生産物の価格は常に全体の供給量に大きく左右される。身を削りながら育てたトウモロコシが、豊作による供給過多で市場が飽和すると、一本5円。農作業中、時には寝落ちしながら束ね続け、出荷したホウレンソウは一束70円。
「オレの人生、終わったな……。このまま、一生貧乏なのか……。」
自らの力が及ばない市場のメカニズムに振り回され、経営改善の見通しが立たないことに絶望し、20代前半には鬱状態にも陥ったこともあった。
精神的にはギリギリの状態だった20代を乗り越え、寺坂さんが将来を賭けた農作物が、単価の高いメロンだった。栽培が特に難しい作物ではあるものの、生産量を拡大し売上規模は2倍の1200万円まで伸びた。しかし、1998年ごろからデフレ経済が深刻化し、その影響から今度はメロンの市場価格が暴落した。
不況というさらに大きな波の中で、状況を変えるためには2つの道しかなかった。
一つは農地を購入し、耕地面積を拡大する規模拡大の道。国の推奨の元、各種の補助金もあり、北海道では最も一般的な形態だ。もう一つは耕地面積を集約し、付加価値の高い作物であるメロン栽培に注力すること。それを消費者に直販し、売上を上げていく道だった。農協に出すと一玉400円まで下落するメロンが、直接消費者に売る直販の形態なら一玉2,000円でも売れる。
しかし、直販はいばらの道でもあった。販売にかかる手間で農作業の時間が取れず、肝心の畑が雑草だらけになり、経営悪化に陥るリスクもあった。農協や市場へ一括できる委託販売にも頼れない。消費者へのダイレクトなアプローチ、直売は売れるまで手間もかかる。補助金などの支援も無く、ほとんどの農家は負担増を嫌って選ばない道だった。
だが先の希望が見えない状況の中、寺坂さんが選んだのは後者だった。
理由は、寺坂家が過去に抱えた収入以上の借金だ。一般的な規模拡大の道を選択した場合、大型トラクターや土地の購入などの投資が先行し、寺坂家の借金がさらに増えるリスクがあった。家業を継いだ時に借金に苦しんだ思い出が、生産物全てを自分で売る直販の道を選ばせた。多くの農家が嫌うゆえに、競合が少ないことも小規模な自分の農園にはメリットのように思えた。
周囲の反対を押し切り、1999年、結婚を機に26歳で直売所と通販を開始。
親族の持つ納屋を改装した国道沿いの直売所を妻の恵里さんとともに切り盛りし、朝4時からメロンの収穫、通販の受付、発送作業などこれまで以上に働いた。
5年が過ぎる頃、売上は2000万円に到達した。だが限界までに働いた身体は、時に血尿が出るほど疲労困憊していた。転機が訪れたのは、体力的にも限界を感じ始めていた31歳の時だった。立ち寄ったコンビニで、ふと『成功ノート』という本を手に取った。金文字のタイトル、副題に『非常識に儲ける人々』と書かれたその本は、ビジネス書のベストセラー作家でもあるマーケッターの神田昌典氏によって、アメリカで発達したダイレクトマーケティングという直販の技法を分かりやすく紹介した書籍だった。
「こんな方法があったのか!この直販技術を農業に組み合わせたら、きっと面白いことになる!」
翌日も早朝のメロン収穫作業を控えながら、寺坂さんはその晩、夜中まで『成功ノート』を読みふけった。この一夜を境に、寺坂農園は新たな一歩を歩み始めた。
米や四季成りイチゴなど、直販できない作物、競合の多い作物の生産は全てやめ、メロンの栽培規模を拡大。ダイレクトマーケティングの関連書籍を読み漁り、そこで得た知識を自らの直売所や通販で次々に実践した。不慣れゆえの失敗や落胆を数多く重ねながらも、小規模な家族経営だった寺坂農園は、8年ほどでメロンを主とする直販・通販事業で年商1億円を超える農業法人へと成長を遂げた。
寺坂さんが自ら農家のダイレクトマーケティングの取り組みを紹介した著書『直販・通販で稼ぐ! 年商1億円農家 お客様と直接つながる最強の農業経営』(同文舘出版)は2015年の出版以来、農業書の分野においてamazonラインキングで長く1位の座を保持。寺坂農園の日々を連日発信し続けた農園のSNSも順調にアクセス数を伸ばし、農園のフェイスブックは4.7万いいね!を突破。前例の無い手法と実績は全国から注目を集め、農林水産省が寺坂さんを講師として講演に招くまでとなった。
2013年には家業の農園を、生産を担当する農業生産法人『メロン農家株式会社』と販売や発送を担当する『寺坂農園株式会社』の2社に分け、法人化した。また加工部門を新設し、自社の野菜を原材料とした『感動野菜ドレッシング』の開発と販売を手掛けることで、冬が長い北海道の中でも年間を通じて収益を上げる事業を立ち上げ、スタッフの通年雇用の安定化に繋がる仕組みを構築した。2社の代表となった寺坂さんには農業と経営の傍ら、スケジュールの合間を縫って講演の依頼を受け、全国を飛び回ってはその経験とノウハウを各地の農家や経営者に伝える日々が続いている。
「大好きなことだからやれるのさ。オレ、日本一のメロン栽培マニアだからね!」
寺坂さんは自らを語るとき、茶目っ気たっぷりな口調でそんな言葉を口にする。『1億円農家』という実績とキャッチーな書籍のタイトルから、今は成功した経営者または起業家としても注目を集める寺坂さんだが、それ以上に農業に誇りを持ち、時には経営者としての責任を忘れて生産現場の作業にのめり込み過ぎないよう自らを戒めるほど、メロン栽培を愛する根っからの農家だ。
生産者としても人一倍以のこだわりを持つ。それは寺坂農園のメロン栽培の工程にも色濃く現れている。
富良野盆地が厚い雪に覆われている真冬の1月より、寺坂農園のメロンづくりは始まる。手始めに手掛けるのは、メロンが育つ場となるビニールハウスのビニール掛け作業だ。
周辺を除雪機で除雪した後、ビニールハウスの骨組みとなるパイプ周辺は人力でスコップを使い綺麗に取り除き、ビニール掛けは、雪が吹雪かない無風の日を狙って行う。
そして真冬の恒例が、メロン栽培用の自家製発酵肥料の『ボカシ肥』作り。米ぬか、大豆かす、炭、魚粉、といった原料を土と混ぜ、湯たんぽの役割となる一斗缶へ積み混む。水分量を50%程度に調整しつつ、3日間ほどで約60度まで発酵。酸素を供給し、発酵を促すため一日一回、スコップで切り返す。足元の暖気から生まれる発酵臭は、作業後も衣服や自分の肌にまとわり着くほど強烈だ。
2月上旬からはメロンの苗づくりが開始。ポットと呼ばれる専用の鉢に盛られた土の上に、ピンセットを使い等間隔でメロンの種を蒔く。1つのトレーに77粒、1度の作業で1,000粒以上の種を蒔くことも珍しくない種まき作業は、約10日間隔で14回ほど、5月下旬まで続けられる。
3~4日後に発芽する芽は育苗用のハウスに移され、苗としての成長を促される。ハウス内の地温を22度ほどになるよう温度設定を下げ、ハウス内に接地してある送風機・循環扇を回して微風を送ることでメロンの苗を刺激し、強くしっかりした苗へと育つよう手を掛ける。また、冬は希少な太陽の光を少しでもビニールハウスに取り入れるために、ほぼ毎日、ハウスの雪下ろしも行なう。
苗が育った時点で行われるのが「接ぎ木作業」。メロンが実る「穂木」にその成長を助ける苗「台木」を繋ぎ合わせる。太さ3mm未満の苗の茎にカミソリで切れ目を入れ、苗同士をくっつけては傷口を重ねてクリップで固定。育成のポットに植え替え、ハウスに定植できるまで、大きく育つのを待つ。
特に味の評価が高いメロン“ルピアレッド”は根が弱いのが欠点。その弱さを補うために、根が強い品種と交換する接ぎ木をして、美味しくメロンができる苗へと変えていく。作業を行なう数は毎年およそ8000苗以上。また、接ぎ木直後で弱った苗には遮光ネットで光を調整し続け、苗が元気に育ってきたら遮光ネットを外し、日光に当てて強い苗作りを作る。
また、北海道のメロン栽培は、春先まで残る冷気や短い日照期間との戦いでもある。
初めに苗を植える専用鉢の土は温床の苗床に並べ、土を温めておくことを必要とされる。高温作物のメロンは、冷たい土に植えると根の成長が止まってしまい、しおれてしまうからだ。育った苗はハウス内のメロン畑へ植え替えられる。このハウス内にも温水パイプを埋めて畑の真ん中に通路を造り、土の温度を温める工夫がされている。
4月に入ると、太陽光をさらに畑の土に取り入れるための作業を行なう。マルチフィルムで土を覆って2重のトンネルビニールをかけ、ハウスの屋根と合わせてハウス内を4重の構造とすることで、メロンの苗は太陽光の余熱・蓄熱により夜の寒さをしのぐことができるようになる。このビニールハウスの構造により、メロンが生育する最低温度である、地温で16度以上、気温で14度以上を保つ環境が生れるのだ。
その後も苗から不要な芽を取り除く「整枝作業」、ミツバチを使った「交配」、苗が果実として実を成すようツルの生育を押さえる「摘心作業」、また果実が玉となる段階では、メロン同士の不要な接触を避け、表面の編み目模様が美しく盛り上がるよう一つ一つ手で果実の位置を直す「玉直し作業」などの作業が、収穫期を終える8月中旬ごろまで繰り返し行われる。畑に水を撒く場合も、土の乾き具合、メロンの樹の姿、朝見たときの葉水の上がり方、葉の色やメロンの生育段階などすべてを考慮して行わなくてはならない。
「寝ている赤ちゃんの、肌掛け布団の様子を見るような感じ」
寺坂さんは、メロン栽培の温度管理について、そう表現する。より品質の高いメロンを作り続けるため、寺坂農園ではビニールハウス内のメロンの生育を15段階まで細分化し、それぞれのハウスのメロン畑への目配りを絶やさない。気温差が激しい野外とビニールハウスの中を行き来しながら、まるで伝統的な工芸品作りのような繊細な作業を繰り返す日々が、今の寺坂農園の日常となっている。
手間が多い直販のスタイルを貫くのも、農家としての誇りを持つがゆえだ。
昔のように家族3人で休まず働いても、会社員1人の年収にすら及ばない。そんな状況は嫌だった。誇りをもって農業をしたい。自分らしい農業をしたい。その寺坂さんの思いが、直販や通販の部分でも、その強いこだわりをのぞかせている。
『今まで食べたメロンが何だったのかと思うほど美味しいメロンでした』
目を引くキャッチコピーが表紙に掲載された寺坂農園の通販用パンフレットは、A4サイズのフルカラーで16ページもある。表紙のコピーも初めて寺坂農園のメロンを堪能した、「実際のお客様の声」だ。パンフレットを開くと、1ページ目には寺坂農園のメロンや野菜を体験した他の顧客からの感想・感激のコメントがずらりと並ぶ。
パンフレットの中身も、単なる作物の紹介に留まらない。『土作りでそこまでやるか!?』
『限界まで収穫しない理由とは』など、栽培や収穫の際のこだわりをストーリー仕立てで紹介するページが続き、カタログのページをめくる度、果汁がこぼれ落ちそうな程みずみすしさ溢れるメロン、獲れたてトウモロコシやアスパラガスの大きな写真が次々と目に飛び込んでくる。
商品も贈答用と家庭用に価格帯が分類され、顧客の目的に応じて商品を選べる。カタログの後半には紹介されたメロンや野菜を用いた料理のレシピ写真も掲載され、顧客が飽きずに最後まで楽しんで読めるよう工夫も施されている。
工夫はパンフレットだけに留まらない。パンフレットが封入された袋には、寺坂農園の日常伝えた4ページのニュースレター「メロン通信」、注文書一式や封筒も同封。DMとして発送された場合、注文用紙には依頼主となる顧客の住所や氏名が既に記入されている。顧客は注文したい商品と数量に丸を付けるだけでよく、最小限の労力だけで注文できる仕組みとなっている。
そして、待望のメロンが届いたとき、初めて注文した顧客は、さらに驚くこととなる。箱の中にはメロンの食べごろの時期を明記した「食べ頃カード」が同封され、その裏面には「全額返金保証」「再発送品質保証」の文字が大きく記載されているからだ。
もし発送した商品が顧客の口に合わなければ、寺坂農園では商品の全額返金または代わりの商品を発送する品質保証を、全ての生産物に設定している。
顔の見えない通販の顧客の感情に、徹底して寄り添う。それが寺坂農園の通販の際立った強みの根本だ。だが、そこに至る道もまた平坦ではなかった。
『高いメロンを買ったのに、近所のスーパーで買ったメロンの方が美味しかった』
『インターネットで見て信用したのに、詐欺に合った気分だ』
毎年の気候や日照に影響される農作物ゆえに、高い品質を保持するのは並大抵の努力では到底届かない。直販を始めたころは、そんな厳しい感想が届くこともあった。
「頼んだメロンが届かないんだけど!」
そんな怒りの問い合わせ電話が入り、対応に追われる時期もあった。これまでの農協への委託販売では決して経験することのなかった、顧客の不満、怒り、クレームへの対応と向き合う日々。悩み、自らのふがいなさを噛みしめ、時には涙も流しながらも、直販には顧客の心を捉えることが、いかに重要かを身に染みて理解した。
「絶対に、メロンを売り込まないでね」
寺坂さんは自社の直売所でも、スタッフたちに繰り返しそう説いている。
メロンの収穫が始まる6月下旬、寺坂農園の直売所は夏期のみの営業を開始する。
真夏の北海道で、富良野は観光地として最も人気のあるスポットとなり、たくさんの観光客も直売所に足を運ぶ。1年でも最も稼ぎ時となる時期だが、店内に入っても一切の売り文句を耳にすることはない。
「売り込まれて嬉しいお客様はいない」
それが過去の経験から学んだ大切なノウハウだ。訪問客は無料でふるまわれるカットメロンに舌鼓を打ち、格好の土産物となるメロンの品定めを楽しむ。販売スタッフは、訪問客の購入の目的や好み、予算をていねいに聞き、目的にぴったり合う商品選びのサポートに徹する。
その結果、仮に購入に至らなくても落胆はしない。直売所で楽しいひと時を過ごせたと訪問客が満足すれば、さりげなく紹介するDM発送の案内にも快く応じてくれるからだ。これが、直販農家として大切な通販の「見込み客」となっていく。
メロンの時期が終わると、新たな見込み客は寺坂農園の生産物がメロンだけではないことを知る。8月下旬からはメロンに次いでフルーツのような甘さのトウモロコシ、10月以降は「感動まるごと野菜!」と銘打ったジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、カボチャ、雪下キャベツの詰め合わせ、年が明けて新しい春にはアスパラガスと、1年を通じて寺坂農園の野菜を楽しめる機会がDMを通じて案内される。
『あなたやあなたの大切なお届け先で、当農園のメロンやトウモロコシを食べて頂いたとき、「おいしいっ!」とよろこんでもらうのが使命。私たちが一番大切にしている思いです』
DMには、寺坂さんの手書きの文字で書かれた『ベネフィットレター』と呼ばれる手紙も同封され、こんな言葉が綴られている。同じような言葉は、寺坂農園の経営理念の中にもある。
『メロン・野菜を食べた人に「おいしいっ」と、喜んでもらうのが私たちの仕事です』
この理念が、農業や通販、直販で共通する寺坂農園の事業の根幹だ。「あれをやらなきゃ」「これをしなければならない」こうした脅迫観念を持って働くことを、寺坂さんは最も嫌い、警戒する。そうした思いのまま仕事をすることは、働いている人を絶対に幸せにしない、その結果、大切な顧客や家族、周囲の関係者も幸せにはできないと考えているからだ。それが家業を継いで以降、時には心理学や人生哲学の書籍も数多く手に取りながら、悩み、苦しんだ自分の心と向き合い続けた果てに手にした、寺坂さん自身の信念でもある。
この経営理念に基づき、寺坂農園では顧客のクレームを『ハッピーコール』と呼んでいる。顧客のクレームを厄介事と思わず、自分たちの改善点を示し成功へと繋げる大切なヒントとして受け取るためだ。また、毎日のように発信される寺坂さんのフェイスブックやブログは、こんな一文で締めくくられる。
『今日も農業を通じてたくさんの仕合わせを生み続けます!』
「幸せ」は自らが引き合わせる物として「仕合せ」と書き、「仕事」は理念を実現化するための行為として「志事」という言葉に置き換える。ハウス栽培ゆえに起きる外気の寒暖の差に身体を疲労させても、大量の通販の注文処理をこなす時も、または通販のDMやHP、ブログの発信を一から見直し続ける作業も、やりたいからやっている。だからこそ、続けられる。大好きだから、より良いものにしようと改善できる。
「おいしいっ」と、喜んでもらうことに寺坂さんが強い思い入れを持つのは、それが農業の生産者にとって、何物にもかえられない喜びだからだ。
農業もダイレクトマーケティングも、結局は成果が出るまでやり続けられるか否かの世界だ。成果が出てもさらなる成功を求めれば、終わりなき道に足を踏み入れたようにも思うだろう。それでも続けられたか、続けられなかったかの違いは、単なるテクニックやノウハウではない。その原動力となる、思いの強さが成果の分かれ目となる。
事件発生を知らせた8月3日の投稿の締めくくりには、ケント・M・キースの『逆説の10か条』に自らの状況に当てはめている。
『持っている最高のものを、世の中に与えたら自分は酷い仕打ちを受けるかもしれない。それでも自分の好きな農業を続けて、自分が創造できる最高のものを、世の中に与えていこうじゃないか』
マザーテレサをも感動させたという『逆説の10か条』は、寺坂農園に転機をもたらした『成功ノート』の著者である神田昌典氏も紹介し、寺坂さんの心にも刻まれていた。
「私は人の妬みの感情も肯定しているんです。だから、これからも委縮して農業はしない。ただ自分と自分の家族、会社のために働き、お客様に喜んでもらう「志事(しごと)」をしようと、その瞬間瞬間を努力して生きていくだけなんです」
時に落胆し、時には傷つきながらも、自分たちの理想に向かって愚直なまでに、ただ一心に歩み続ける。それが寺坂祐一という人であり、寺坂農園を成功へと導いた原動力だった。
事件被害の投稿後も、寺坂農園のSNSには農作業や出荷に励む農園の様子がアップされ続けた。8月23日には、農園の見学に訪れた帯広農業高等学校の生徒40人を受け入れた。生徒たちの活発な質問にも答え、事件についても寺坂さん自身の口から説明を行なっている。
寺坂農園は、再び力強く歩み始めたように見えた。だが、事件被害を投稿した後の日々を寺坂さんは、こう告白する。
「10月いっぱいまでは、引きこもりでした」
言葉通り、実際に部屋にこもっていたわけではない。十分なほど、活発に動いていた。だが、それは表向きのことだった。寺坂農園は、再び追い詰められていたのだ。
事件の犯人に、ではない。いわゆる「世間」に、である。
第3章 炎上と沈黙と につづく
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第一章 真夏の悪夢
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北海道・富良野からおいしいメロン・野菜を全国にお届けし、お客様に「おいしいっ」と喜んでほしい』を理念と据え、産地直送に取り組む農業を続けています。